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「ツラタン、ヤバタン、ナポリタン……」
昼食の時間、アキナがぼそっと呟いたこの言葉から、第5話は始まります。意味は、よくわからない。でも、なぜか笑える。そしてなぜか、じんわりと温かい。
第5話は二部構成です。Aパートは秋名アキナが出淵くんへの片想いを友人たちに打ち明け、「騙しだまし」の日々から一歩踏み出すまでの物語。Bパートは補習室という「いつもの場所」に、微笑ちゃんの妹・鈴句ちゃんという「外部からの視点」が持ち込まれ、桜大門くんとポエムちゃんの外堀が静かに埋まっていく物語。
笑いの奥に、誰かの本音が息をしている。そんな第5話を、台本に忠実に、一緒に読み解いていきましょう。
ツラタン、ヤバタン、ナポリタン考察|「ブッチー分が足りてねえ」
「ナポリタン」という言葉の選択|意味不明なのに、なぜこんなに伝わるのか
「ツラタン、ヤバタン、ナポリタン……」

タサキが即座に返します。
「どうしたのアキナ? 急にクソ寒いこと言い出して……」
「クソ寒い」。正論です。語尾に「タン」をつけて韻を踏んでいるだけで、意味は何もない。でも、アキナはこの言葉を選んだ。
「ツラい」「ヤバい」という感情を、なぜアキナは「ナポリタン」で締めたのか。
これは「言語化できない感情の、正直な末路」です。ツラい、ヤバい――そこまでは言葉になる。でも、その先の感情は、もう言葉にならない。言葉にならないから、「ナポリタン」という意味のない音で着地するしかなかった。
意味がないからこそ、伝わる。「ナポリタン」という言葉の空虚さが、アキナの感情の「言葉にならなさ」を、そのまま体現しているのではないでしょうか。
私たちも、似たような経験をしたことがあるのではないでしょうか。好きな人への気持ちが溢れすぎて、もう言葉にならなくて、「あーもう……」とか「なんか……」とか、意味のない音を出してしまう、あの感覚。アキナの「ナポリタン」は、その感覚の、最も正直な表現ですね。
「ブッチー分が足りてねえ」という概念|好きな人への渇望を「栄養素」として捉えた天才
「ブッチー分が足りてねえんだよ……足りてねえんだ……足りてねえんだよ……」
三回繰り返す。この繰り返しが、たまらない。

「ブッチー分」という概念が、まず素晴らしい。好きな人への渇望を「栄養素」として捉えるこの感覚――私たちにも覚えがあるのではないでしょうか。あの人の声が聞きたい、顔が見たい。それが満たされない時の、あの胸の空洞感。アキナはそれを「分」という単位で表現してしまった。
「ブッチー」とは、保健委員の出淵くんのこと。田崎ちゃんが「ブッチーって保健委員の伊豆渕くんのこと?」と確認するシーンがありますが、ここで正式名称は「出淵」であることが改めて示されます。アキナが「ブッチー」と呼ぶ、その親しみを込めたあだ名の中に、すでに片想いの深さが滲んでいるのではないでしょうか。
「足りてねえ」という言葉は、栄養不足の感覚そのものです。ビタミンが足りない、鉄分が足りない――それと同じ切実さで、「ブッチー分が足りてねえ」。
田崎ちゃんが確認します。
「ブッチーって保健委員の伊豆渕くんのこと?」
「足りてないとは一体……」とポエムちゃんが続ける。
この二人の反応が、また絶妙です。田崎ちゃんは「ブッチー」の正体を確認し、ポエムちゃんは「足りてない」という概念に引っかかる。二人が引っかかるポイントが違う。それぞれのキャラクターが、一言の反応の中にちゃんと生きている。
「ポエはいいよ」という本音|羨望と欠乏感が、この一言に凝縮されていた
「ポエはいいよ……毎朝校門のとこに桜大門くんが突っ立ってんんだから……」
ここで少し立ち止まってみましょう。
「ポエはいいよ」――これは、ポエムちゃんへの羨望です。毎朝校門で桜大門くんと顔を合わせられるポエムちゃんが、「いい」。好きな人に毎朝会える環境が、「いい」。自分にはそれがない、という欠乏感が、この一言に凝縮されているのではないか、と考えます。
「ブッチー分が足りてねえ」という言葉と合わせると、アキナの渇望の深さが、じわじわと伝わってきます。
そしてここで、アキナはスマホを取り出す。
「ツーショット写真を日に十数回眺めて騙しだまし生きてる」という告白|これは重症です
【アキナ、スマホを取り出す。出淵とのツーショット写真を見せる。(出淵は気絶しているようだが…)】

「こっちはよ! このツーショット写真を日に十数回眺めて騙しだまし生きてる日々だよ……」
「日に十数回」。
「十数回」というのが、また絶妙な数字です。「何十回」でも「何百回」でもなく、「十数回」。誇張ではなく、リアルな数字。本当に数えているのか、数えていないのかわからないけれど、「十数回」という具体性が、この告白のリアリティを一段階引き上げています。
そして「騙しだまし生きてる」という表現。しかも出淵君は気絶。つまり勝手にアキナが取ったと言うこと。
これはもう重症です。でも、重症であることを隠さずにポエムちゃんとタサキちゃんに話せる関係性が、この三人の間にはある。それがこの作品の、最も温かい土台ではないか、と考えます。
「ていうか……出渕のことマジだったん?」友情の温度が、この一言で測れる
ポエムちゃんの「マジだったん?」|驚きの中に、ちゃんと心配がある
「ていうか……出渕のことマジだったん?」
ポエムちゃんのこの一言、どう受け取るか。
「マジだったん?」という問いかけは、「知らなかった」という驚きです。でも、その驚きの中に、ちゃんと「それなら話は別だ」という切り替えが含まれている。「マジ」かどうかで、友達としての動き方が変わる。それを確認しているのが、この一言ではないか、と考えます。
ポエムちゃんは、アキナの「ブッチー分が足りてねえ」という言葉を聞いて、笑いながらも、ちゃんと「これは本気の話だ」と受け取った。だから「マジだったん?」と確認した。友情の、最も実用的な形がここにある。

タサキちゃんの「暇だし」という一言の、正直すぎる可愛さ
「よっしゃポエ! いっちょお膳立てしてやろうじゃないの……暇だし……」
「暇だし」。
この「暇だし」が、たまらない。友達のために動く理由として「暇だし」を挙げるタサキちゃんの正直さ。「友達のためだから」「力になりたいから」ではなく、「暇だし」。でも、その「暇だし」の中に、ちゃんと「アキナのために動きたい」という気持ちが入っている。
照れ隠しとしての「暇だし」。これは、タサキちゃんというキャラクターが持つ、最も人間らしい優しさの形ではないでしょうか。
そしてポエムちゃんが続けます。
「アキナ、あたしらに任せときな!」
「他人のことだと乗り気です……」|自己認識の正確さが切なさを倍増
【アキナ、ぼんやりとした顔で二人を見る。】
(ナレーション)他人のことだと乗り気です……
この「ぼんやりとした顔」と「他人のことだと乗り気です……」の組み合わせが、このシーンの白眉ではないか、と考えます。
アキナは、わかっている。二人が自分のために動いてくれていることも、自分がそれに甘えていることも、「他人のことだと乗り気」という自分の性質も。全部わかっている。わかっていながら、止められない。
「ぼんやりとした顔」というのが、また正確です。感謝でも、申し訳なさでも、期待でもなく、「ぼんやり」。感情が多すぎて、顔に出せなくなっている状態。あるいは、二人の熱量に対して、自分がついていけていない状態。
私たちも、似たような瞬間を知っているのではないでしょうか。友達が自分のために動いてくれているのに、なぜか「ぼんやり」してしまう瞬間。嬉しいのに、実感が追いつかない瞬間。アキナの「ぼんやりとした顔」は、その感覚の、最も正直な表現ではないか、と考えます。

アキナの恋心考察|「ポンコツ」な片想いが、なぜこんなに刺さるのか
出淵くんというキャラクター|「怖いけど優しい」という矛盾の磁力
ここで少し、出淵くんというキャラクターについて考えてみましょう。
出淵遊(CV:堂島颯人)。常に白衣を着ているのに、どう見ても特攻服に見える――この矛盾が、出淵くんというキャラクターの全てを象徴しています。元ヤンとして中学時代は相当やんちゃしていたという過去を持ちながら、現在は保健委員として生徒の健康を守る仕事に就いている。口調は常に荒々しく「こら」「てめえ」が飛び交いますが、怪我人や病人がいれば走って駆けつける面倒見の良さ。

アキナが「ブッチー分が足りてねえ」と言うほど惹かれているのは、この「怖いけど優しい」という矛盾の磁力なのです。
怖い人が優しくしてくれる瞬間の、あの破壊力。私たちも、知っているのではないでしょうか。
「ギリギリアウトな行動」の正体|好きだから、止められない
アキナというキャラクターは、出淵くんへの片想いにおいて「こっそり尾行したり写真を撮ったりとギリギリアウトな行動が多い」
「遠距離ツーショット写真を日に十数回眺めて騙しだまし生きてる」という告白も、その延長線上にあるのです。
ここで違和感を覚えた方もいるかもしれません。「ギリギリアウト」な行動を取りながら、なぜアキナはこんなに愛らしく見えるのか。
私が思うに、それは「自覚があるから」ではないか、と考えます。アキナは自分の行動が「ギリギリアウト」であることを、ちゃんとわかっている。「他人のことだと乗り気です……」というナレーションが示すように、自分の性質を客観的に見る目を持っている。わかっていながら、止められない。その「わかっていながら」の部分が、アキナの片想いに、どうしようもない人間らしさを与えているのではないでしょうか。
タサキちゃんのBL視点|「見出すもの」という哲学の、恐ろしい応用
台本の後半に記されたナレーション的テロップ。

「タサキはBL好きであった……」
この一行が、すべてを説明しています。タサキちゃんが「乗り気」だった理由は、アキナへの友情だけではなかった。出淵くんと桜大門くんのBL的な構図を「美味しく頂いた」可能性が、ここに静かに示唆されている。
タサキちゃんは「BLは用意されてるものじゃない。見出すもの!」というマン研の教えに従って生きている人物です。アキナの恋愛を「お膳立て」しながら、同時に出淵くんと桜大門くんの間に「可能性」を見出している。一粒で二度おいしい、という言葉がこれほど似合うキャラクターも珍しい。
「暇だし」という言葉の裏に、これだけの動機が隠れていたとしたら――タサキちゃん、なかなかの策士ではないでしょうか。

第5話Bパート考察|補習室という「日常」に、妹という「外部」が侵入した日
補習室の日常化|「また」という一文字に宿る、恐ろしい意味
第5話Bパートのサブタイトルは「ポンコツのいる高校に妹が見学に来る日にまたポンコツと補習を受ける話」です。
「また」という一文字に注目してください。
補習が、日常になっている。ポエムちゃんと桜大門くんが机を並べることが、「また」という言葉で処理されるほど、当たり前になっている。
これは、ある意味で恐ろしいことではないか、と考えます。非日常が日常になる瞬間というのは、当事者には気づけない。外から見て初めて、「あ、この二人、もう普通じゃないな」とわかる。第5話のBパートは、その「外からの視点」を、妹たちという形で持ち込んだ回だったのではないでしょうか。
「無意識に笑顔」という告白|桜大門くんの最も無防備な瞬間
「よっ、統悟。」
「また補習受けることになってしまったんですね。」

ニヤニヤしながら補習室に入ってきた桜大門くん。ポエムちゃんに指摘されて初めて気づく。
「なんとなくポエムさんがいる気がして、無意識に笑顔になっていたようです。」
この台詞を、桜大門くんは照れることなく、自然に言います。
少し立ち止まってみましょう。「無意識に笑顔になっていた」という事実を、桜大門くんは隠さない。恥ずかしがらない。ただ、事実として報告する。その真っ直ぐさが、ポエムちゃんの「うん。あぁ、もういいから早く席につけて!」という反応を引き出している。
「もういいから」という言葉の中に、何が入っているのか。それは、私たちそれぞれが想像するしかない部分ではないでしょうか。
菊花ちゃんの告白|「毎日とても楽しいって、笑顔で話してくれるようになった」という言葉の重さ
桜大門くんの妹・菊花ちゃんがリリックちゃんに話します。
「兄は真面目で優しい人だけれど、真面目すぎてもともとあまり笑ったりしない人だったんです。でも高校に入ってからは毎日とても楽しいって、その日あったことを笑顔で話してくれるようになったんです。プリンさんだったかな? そんな可愛らしい名前の人と友達になったとか。」

「プリンさん」。
ポエムちゃんのことを、桜大門くんは妹に「プリンさん」と話していた。「ポエム」という名前が「プリン」に変換されているのは、菊花ちゃんの聞き間違いか、桜大門くんの照れ隠しか。どちらにせよ、桜大門くんが家でポエムちゃんのことを話していたという事実は変わらない。
「毎日とても楽しいって、笑顔で話してくれるようになった」。

この一言が、第5話Bパートの核心ではないか、と考えます。補習室で机を並べることが「また」になるほど日常化した二人の関係が、桜大門くんの家庭での表情を変えていた。当事者たちが気づかないうちに、周囲の人間関係が二人を「そういう関係」として認識し始めている。
ここで違和感を覚えた方もいるかもしれません。桜大門くんは、なぜ「ポエムさん」ではなく「プリンさん」と妹に伝えたのか。照れ隠しだとしたら、それはすでに「照れる関係」になっているということの、何よりの証拠ではないでしょうか。
「今日はポエムさんと二人きりだと思ってたので」|この一言が処刑である理由
校門の近くで、ポエムちゃんと桜大門くんが妹たちと鉢合わせした後。

「今日はポエムさんと二人きりだと思ってたので……」
桜大門くんが、照れることなく自然に言った。
ポエムちゃんが固まる。顔が真っ赤になる。
「なんでもねえよ! 今日は暑いわ……」
「もうすっかり夏ですからね……」

「もうすっかり夏ですからね……」。この台詞が、第5話の最後に置かれていることの意味を、少し考えてみましょう。
春は、出会いの季節です。二人が補習室で初めて机を並べた季節。その春は、とっくに過ぎている。もうすっかり夏になっている。それは、二人の関係が「出会いの季節」をとっくに過ぎて、次の季節に入っていることの、静かな宣言ではないか、と考えます。
桜大門くんは、それを「もうすっかり夏ですからね……」という天気の話として言った。でも、その言葉が指しているものは、天気だけではないのではないでしょうか。

第5話総括|「ツラタン、ヤバタン、ナポリタン」が描いた恋の解像度
この冒頭シーンを振り返ると、わずか数分の昼食シーンの中に、恋心のあらゆる側面が詰め込まれていることに気づきます。
言語化できない感情(ナポリタン)、栄養素としての渇望(ブッチー分)、羨望と欠乏感(ポエはいいよ)、写真への依存(日に十数回)、友情の温度(マジだったん?)、照れ隠しの優しさ(暇だし)、自己認識の正確さ(他人のことだと乗り気)。
これだけの感情の層が、「ツラタン、ヤバタン、ナポリタン……」という一言から始まっている。
恋心の解像度が高い、とはこういうことではないか、と考えます。「好き」という感情を「好き」と言わずに、その周辺にある無数の小さな感情を丁寧に拾い上げていく。その積み重ねが、「ナポリタン」という意味不明な言葉を、最も正確な恋の表現に変えてしまう。
「ブッチー分が足りてねえ」という言葉が、私たちの胸に刺さるのは、それが「好き」という感情の、最も正直な翻訳だからではないでしょうか。
そして第5話全体を通じて見えてくるのは、「転ぶ」ことへの肯定です。アキナは片想いの中で転び続けながら、それでも前を向く。ポエムちゃんは「今日は暑いわ」と言いながら、ちゃんとそこに立っている。転んでも、前を向ける。それは、画面の中だけの話ではないかもしれません。
第6話のアキナが、どれだけ「ブッチー分」を補充できるのか。ポエムちゃんと桜大門くんの「夏」がどこへ向かうのか。一緒に見届けていきましょう――。
👉使用した画像および一部の記述はアニメ公式サイトから転用しました。

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